レアル・サラゴサ対ウエスカ キャプテンマーク

アラゴン州の新しい取り組みや発明にまつわるアラゴンアイデンティティをテーマにしたキャプテンマークシリーズ。それぞれの分野で社会に貢献したウエスカ県とアラゴン州の人々を取り上げています。

レアル・サラゴサ戦のキャプテンマークは、アラゴン史上最高の選手といわれるカルロス・ラペトラへのオマージュです。カルロス・ラペトラはサラゴサでウエスカ出身の家庭に生まれ、現役時代はウエスカに住んでいました。私たちが見つけた写真の彼は、ほとんどいつも同じようなポーズなので、キャプテンマークではそれを再現してみました。こちらから見て、いつも写真の右下の端で、両腕を地面につけるか、ボールの上に置いたポーズで写っています。キャプテンマークで彼のために確保した名誉あるスペース。そしてさらに、デザインのもう片方の端には「クアトリバラーダ(アラゴン州の4本線の州旗)」の一部として、サラゴサの伝説的な「マグニフィセント・ファイブ」をあしらっています。

以下に、キャプテンマークのデザイン説明と、彼の功績をデータやエピソードを交えてご紹介します。

カルロス・ラペトラ・コアラサ(サラゴサ、1938年)

カルロス・ラペトラ・コアラサは1938年11月29日に、父フィデルと母メルセデスの3人目の子としてサラゴサで生まれました。ファミリーはウエスカ出身なので、彼のルーツはもう少し北にあります。ファミリーがサラゴサに居所を移したのは、ウエスカが内戦によってひどい状況にあったためでした。農場主だった父は、のちにウエスカ県議会議長やスペインの下院議員にもなった人です。

カルロスは、ウエスカのサン・ビアトル小学校でサッカーを始めた頃から、ピッチの上で目立つ存在でした。

家庭が裕福だったおかげで(時代を考慮すればなおのこと)、彼と兄のリカルド(カルロスと同時にレアル・サラゴサと契約)は、サラゴサのイエズス会で中等教育を受けた後、マドリードで高等教育を受け、法学を学びました。兄弟がサッカーに打ち込むことを父親が良く思っていなかったため、彼らがサッカーへの情熱を自由に発散できるようになったのは、マドリードに進学してからのことでした。家を離れて生活することで自立したラペトラ兄弟は大学のサッカーチームでプレーするようになり、それが3部のグアダラハラの目に留まり、チームと契約します。しかし、彼のサッカー選手としての大きな飛躍は、ファミリーの友人であったエミリオ・アラが、父フィデルにサラゴサと契約するよう説得したことがきっかけでした。彼はラペトラ兄弟に特別な才能があることを見出していたのです。サラゴサにとってこの契約は大当たりで、ここからクラブの最初の快進撃が始まったのです。

カルロスがサラゴサと契約したのは1959-60シーズンですが、この年はあまりぱっとしませんでした。しかし、翌シーズンから”マグニフィセント・ファイブ “のほかのメンバーが次々にサラゴサに降り立ちます。マルセリーノはラペトラと同じ年に、ビジャとサントスは1962-63シーズンに、その次の1963-64シーズンには5人目のカナリオがサラゴサに加入しました。そして、5人が揃ったまさにこの年、サラゴサはバレンシアを下してコパ・デ・フェリアス(現在のUEFAカップに近い)、そしてラペトラとビジャのゴールでコパ・デル・ジェネラシモという、クラブ史上最高の2つのタイトルを2週間と間を空けずに獲得したのでした。さらに、コパ・デ・フェリアスの決勝の3日前にはスペイン代表が欧州選手権で優勝を決めていますが、決勝戦ではかのパコ・ヘントを差しおいて、ラペトラがスタメンでプレーしたのでした。

サラゴサの作ったチームの素晴らしさをもちろん忘れてはなりませんが、この5人はこのクラブの一時代を築き、スペイン国王杯(現在のコパ・デル・レイと当時のヘネラリッシモ杯)で4年連続決勝進出を果たし、うち2回は優勝に輝いています。

カルロス・ラペトラのプレーを見た者が今でも忘れられないのは、スペインサッカーでそれまで見たこともないような、彼の左足から繰り出される絶妙なプレーでした。読みに優れた彼は、普通のウイングでもストライカーでもなく、センター付近まで下がって攻撃チャンスを作るプレーヤーでした。『エル・パイス』紙のインタビューで彼自身が認めたように、ラインに貼りついてプレーするのが嫌だったからです。彼が中に入って、自由に動けるようになった左サイドのカナリオにパスを出す。背番号「11」といっても偽左ウイングで、先読みして軽快に動き、ファーストタッチでチームの攻撃をお膳立てしました。彼が今でもスペインが生んだ最高のプレーヤーの一人、そしてもちろんアラゴン史上最高のサッカー選手なのはこういう理由からです。

ラペトラは時代の先を行くプレーヤーでした。インサイドハーフを兼ねたウイングで、センターとのコネクションやサイドからの突破をエレガントにやってのけました。ビートルズが長髪で世界に知られ始めた頃、長い金髪(愛称は「パノチャ」)がトレードマークのラペトラは一歩先を行っていたようです。マルセリーノと並んで、サラゴサで初めて年俸が100万ペセタを超えた選手でもあります。最後となった1966年のワールドカップ・イングランド大会まで、スペイン代表メンバーに13回選ばれています。エバートンの選手の激しいタックルで脛骨を縦骨折したのが原因で、29歳で早期引退しました。

引退後は、ビジネスに彼らしく地道に専念し、メディアのコメンテーターとしてもコラボしながら、レアル・サラゴサを近くから応援し続けました。また、スペイン国際サッカー選手協会の創設メンバーの一人でもあります。

ウエスカルーツを誇りにし、サラゴサでプレーしながらも愛するウエスカに住み続けました。ウエスカから練習に通い、試合前には自宅で食事をしてから着替えに間に合うように“出勤”していました。当時の噂では、ウエスカとサラゴサを結ぶ道路が良くなった理由の一つは、彼が愛車アルファロメオで頻繁に往復していたからだといいます。そういうことを快く思わない監督もいました。また、セサルを除き、彼がヘビースモーカーであることもよく思われていませんでした。

「神がかり的な11番」とも呼ばれた彼は、1995年のクリスマス・イブに大病の末、57歳で早すぎる死を遂げました。亡くなる数カ月前、彼はナジムの記念すべきゴールでサラゴサが欧州カップウィナーズカップを制覇し、クラブ史上最高のタイトルを獲得するのを見届けることができました。

 

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